以前の話だが
私は自転車が好きでよく街中を適当に走る事があった
凡その目的を決めて地図をチラ見だけして適当な道を走る
この時方位さへ間違へなければほゞほゞ目的地に至る
方位は太陽の位置と時間で大体は判るので地図も磁石も必要ない
ただ稀に
曇ってゐたり何かに気を取られたり日が暮れたり或いは単に方位を勘違ひして自分の現在位置が全く判らなくなり焦る事があった

まぁさすがに山へは磁石を持って行く訳だが
結局方位さへ判れば
とんでもなく道を外れると云ふ事はほゞほゞ無い
実際視界のほゞ無い冬山で磁石を確認したおかげで元の道に戻れた事もある

以上は具象の話だが
神示を読むに当たっても方位は必要なのでは無いか

オカルトだとか精神世界…チャネリングだとかを指針にして神示を読むと
或いは既存の宗教を指針にして神示を読むと
恐らくとんでもない処に
神示の意図とは全くかけ離れた処に到達せざるを得ないのではないか

では神示を読むに当たっての指針
向かふべき方位は何処なのかと云へば
(予測出来た方もをられるだらうが)
 ・ である

 ・ が判らないと云ふならば其れでも良いだらう
少なくとも其れが既知の何かでは無いと云ふ事だけでも判ってゐれば
道を踏み外す可能性は下がる

皆々様どうも既知の何かと神示を結び付けたがる傾向があるのではないか

まぁ私を含めて誰しも己の無知に直面するのは心苦しいものではあるのだが

神示にはかうある

黒鉄三十五
『めあてなしに歩いたとて、くたびれもうけばかり。
人生のめあて、行く先の見当つけずに、その日暮しの、われよしの世となり下がってゐるぞ。めあては☉の・でないか。
・に向かないでウロウロ。
草木より、なり下がってゐるでないか。』


尤もこれは神示に限った話ではなく人生全般における話でもあるのだがしかし此処で思ふ方もをられるだらう

「いや… ・ が既知ならざる物だと云ふのは判った
しかし判らぬ物を指針には出来ぬだらう」と

さう云ふ方の為に此処でダンテス・ダイジを引用しておく
いつものアメジスト・タブレット・プロローグからである

『どのような神秘不可思議な教えも
結局は慈愛と絶対無とを指し示している』

慈愛と絶対無は ・ の二つの側面と云へるだらう

これを指針にするならば

恐らくはさうさう簡単に道を踏み外すやうな事は無い筈である


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