いはゆる宗教界も含めて人間の社会生活全般に於いて「我」(が)と云ふものが非常に幅を利かせてゐる

現代社会の人間関係の殆どは(程度の差こそあれ)
我の喰ひ合ひ/共喰ひ状態なのでは無いか

ではそもそも我とは何かと云へば
自意識(自分はかうであると云ふ意識)と見ていいと思ふ
さうして我の問題とはつまり
其の自意識を維持する為に多くの人達が意識的であれ無意識であれ心理的な戦争をしてゐる事と定義してみる

以下参考までに神示に於ける我の取扱ひを少しまとめてみた

下十七
『我を張ってはならぬぞ、
我がなくてもならぬぞ、
この道 六ヶ(むずか)しいなれど縁ある人は勇んで出来るぞ。』

下二十三
『仕組通りにさすのであるから、
臣民 我を去りてくれよ。』

天二十三
『我がなくてはならん、
我があってはならず、
よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。』

我は
あっても無くてもよろしくない…

我がある事自体は否定されないが
剥き出しにするやうなものではないらしい
とは云へ無理矢理我慢するのも何やら違ふと思はれる

要はその兼ね合ひだらうか

地四
『我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ。』

我が強過ぎる(=自意識過剰)ならば
遅かれ早かれ打ち砕かれる
ただ口の達者な弁の立つ(いはゆるアタマの回転の早い)人間は自己弁護に徹し易く
よって自我の打ち砕かれるのが遅くなり
其れだけに自我が肥大化し
神示的には手遅れにならないとも限らない…

日月十三
『人間心で急ぐでないぞ。
我が出てくると失策(しくじ)るから
我とわからん我あるから、
今度は失策(しくじ)ること出来んから、ここと云ふ時には神が力つけるから急ぐでないぞ。
身魂磨き第一ぞ。』

我とわからん我…
自分にとって当たり前過ぎると
我だと気付かぬ事がある…
其の我の消えた後に思ひ返して
あゝ何と云ふ思ひ違ひであつた事かと気不味くなるやつだ

水十二
『人間心には我(が)があるぞ。
神心には我がないぞ。
我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。
我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。
神にとけ入れよ。
てんし様にとけ入れよ。
我なくせ、我出せよ。』

このてんし様と云ふのは皇室とは無関係である
結果的に皇室の誰かと云ふ可能性もあり得るが
可能性だけならば万人にあると思っておいた方がよいだらう
恐らく現時点ではまだ気にすべき文言では無いと思はれる


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なんか此の所やたらと更新してゐますけどね
あまり時間も無いやうな気も致しまして
一通り神示を紹介しておければいいのだがなぁ
と云ふ感じでせうか
まぁさう云ふのはただの気の所為で
結局は自己満足なのかも知れませんが
どなたかの参考に多少なりともなってゐるなら幸甚です